甲斐絹の歴史history

―郡内織とは―

郡内織とは、郡内地方(北都留郡、大月市、上野原市、都留市、富士吉田市および南都留郡の一部)で織り出される織物の総称でです。 主に絹織物であったことや甲斐国の他の場所でも織物が行われていたことから、「甲斐絹」や「甲州織」といった呼び名も存在します。
近世初期から郡内で生産されるようになった絹織物は遠く離れた関西地方にまで広く流通しました。また縞模様の入った郡内織は「郡内縞」と呼ばれ、高級絹織物に比べて安く、「田舎絹」と呼ばれる絹織物に比べて質が高いということから江戸に住む一般の町人に広く好まれました。そのため後にこの時代を舞台とする文学作品にもしばしば「郡内縞」といった名前が登場します。




―郡内織に尽力した人々―

〔徐福〕
今から2200年以上前の紀元前219年、秦の始皇帝から不老不死の薬を探すという命を受けて、家来の徐福が日本を訪れました。そして後に薬が見つからず定住を決めた徐福が高い技術力を阿祖谷(今日における富士吉田市大明見)の里人に伝えたと言われています。

〔秋本氏〕
寛永10年(1633年)2月、甲斐国東部の郡内地方にあたる谷村藩には上野国総社藩から移封された秋元泰朝が谷村大堰や富朝期の植林事業、喬知期の新倉掘抜の開削など用水堰の開削を行い、養蚕の奨励や後に郡内織として特産物となる機織の振興などを孫三代に渡り行ったとされています。


―文学への登場―

〔井原西鶴『好色一代男』〕
・・・真木の戸袋に立ちしのぶを、釣行燈の光をわざとしめして、「それ、そこ」と内儀に押しよせられ、こはごは湯殿にかけこみ、こころのせくままにちよと物して出る処を、よしに見付けられて、悲しや様々口がため、ぐんない縞のおもてを約束するこそきのどくなれ・・・
〔夏目漱石『虞美人草』〕
・・・床の抜殻は、こんもり高く、這い出した穴を障子に向けている。影になった方が、薄暗く夜着の模様を暈す上に、投げ懸けた羽織の裏が、乏しき光線をきらきらと聚める。裏は鼠の甲斐絹である。 「少しぞくぞくするようだ。羽織でも着よう。」と先生は立ち上がる。 「寝ていらしったら好いでしょう」・・・

―郡内織の”今”―

 終戦直後は朝鮮戦争による特需で急激な経済成長を遂げたことや戦時中に課されていた織物業の規制の解除により郡内織物も一大好景気に突入した。「ガチャン」と機を織ると万単位のお金が入ってくることを表現した「ガチャ万ブーム」という言葉も生まれました。また和装から洋装へと普段の服装が転換した時期にも、傘地やスーツの裏地など新しい分野に積極的に挑戦し新興機業産地へと急激に発展しました。特に先染織物として出荷する座布団地などは今日、全国シェアの約半分を占めています。ブランドや大企業の下請けとして陰ながら日本のファッションを支えてきたのです。
 近年では技術の進展により機械の能率が上がり少ない織機台数による大量生産が可能になりました。今日、そのことに従事者の高齢化や担い手不足・新興国からの安価な製品の流入等により多くの生産者が廃業に追い込まれるなどの問題も相まって産業構造が変容しました。1951年6月当時12085台あった郡内地方の織機は少数の中・大規模な企業と個人経営の事業者とに二極化したことにより2006年11月時点で1856台とおよそ七分の一になっています。また知名度の低下も問題視されておりウェブやネット上での宣伝活動も求められている。


―手織り―

今日において郡内織は最盛期に比べると大きく規模が縮小してしまった。そんな中でこれまでと違った手織りというスタイルが注目を浴びています。普段流通の大多数を占めている大量生産の機械織りとは異なり、手織りは自分の好みに合わせて自由な発想で織ることが出来るという長所を持つ。その可能性の大きさはコースターやランチョンマットなどの小物、装飾品からストールや上着などの大きなものまでに及びます。その特徴が子どもから年配の方まで幅広く好まれており、特に子どもたちには地元の伝統産業に触れる良いきっかけづくりの場となっています。子どもたちが自由な発想で創り出す織物は大人たちが普段思いつかないようなデザインもあり新しい織物のかたちとなっています。


参考資料提供 ―織〔Weave〕―

手織り教室

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大月織物協同組合内
大月織物研究会
代表 清水 寿子